竹谷隆之の半世紀と漁師の角度

禍々しくも奇妙なる魔境。『漁師の角度』の世界観は、まさに竹谷隆之の原点回帰そのものであった。作者の人生を辿り、作品の真意を探るロングインタビュー。

幼少時代と阿佐ヶ谷美術学校(前ページ)

プラモが決めた次なる道
--社会人になると、多くの方との出会いがありますね。
竹谷:はい。進級制作のあと、西荻窪のナカマ模型にふらりと出かけたら、そこで店員さんが「今なに作ってるのー?」と話しかけてくれたんですね。「もしよかったら展示するよ」 というので、あとでその進級制作の作品を持って行ったところ、 後日そのショーウィンドウを見た小林誠さん(*10)から葉書が来たんです。『ハイパーウェポン2』を手伝ってほしいという依頼でした。たまたま当時は、お互い高円寺に住んでいたこともあって手伝うようになったんです。 それがアサビの3年生の時でした。そして造形の作業が終わると、それを本にする作業に移るのですが、じゃあ版元であるモデルアート社(*11)でアルバイトしないか、ということになり、ハイパーウェポンのロゴをポスターカラーで描いたり、 版下を作ったりしていました。 結局、卒業してそのままモデルアートで働くことになります。「割り付け」という編集作業などはもちろん、作例の撮影の際にちょっとした小道具や地面が必要な時は、その都度僕が作っていました。 雨宮慶太さん(*12)と仕事をするのもこの頃です。寺田がクラウドでアルバイトをしていて、そのご縁ですね。だれか物作りができる人を探しているということでした。雨宮さんもアサビなのですが、僕より4歳上だったので学校ではお会いしなかったのですが。

--面接などはあったのですか。
竹谷:寺田にクラウドに連れて行かれた時は、何か見せる物が必要だということで、MPCというメーカーから出ていた『エイリアン』(*13)と、ツクダホビーの「メーヴェ」(*14)のプラモデルを持って行きました。ちょっと改造した程度だったのですが、「じゃあやってみて」となりまして…。

--雨宮さんが才能を見抜いたのですね。
竹谷:いやぁ、あれだけでは何も見抜けないと思います(笑)。僕も僕で流されるままの性格を発揮して参加してしまうの ですが、最初は展示映像に出てくるモンスターや宇宙船を作ったと記憶しています。すでにこの時期から、元のデザインと同じに作れないという病気が始まってまして、勝手にアレンジして作っていましたね。特にお叱りはなかったのですが、本当はとても困ってた人がいたかも(笑)。 しかし、当時はモデルアートの勤めがあったので、寝る時間がなくなってしまいました。会社に遅刻して来て机に突っ伏して寝ている若造を、暖かい眼で見ていてくれて…皆さんどうかしてます!と今になってからドキドキします。本当に有り難 かったなぁと思います。

フリーランスへ
--その後、フリーランスとなるわけですね。
竹谷:雨宮さんには、会うたびに「会社いつ辞めんの?」と言われていたこともあり、本当に身体がきつかったこともあって、幸いにも円満退社させていただきました。 雨宮さんに報告したら「本当に?何で辞めたの? 食べていけんの?」ですって。知りませんよ(笑)。韮沢(*15)と知り合うのも 同じ時期です。

--そのまま『未来忍者』(*16)に参加するのですね。
竹谷:あれよあれよという間に映画の現場に入ることになって。それまで経験のないことだらけでしたね。ロケ先の野外でモノ作りしたりスタジオに泊まりこんだり…右も左も分からないまま毎日を乗り切っていました。 何にも知らないのに、動く仕掛けのメカを作ろうとしたこともありました。当時は撮影に使うメカの知識がなかったこともあり、関節はベアリングじゃなくてネジをテキトーに刺したようなものを作っていました。パーツの接着もどうする かよくわからず、動かすたびに部品がボロボロ落ちるんです。それで亀甲船(*17)の根岸さんと上田さんに撮影プロップの作り方を教わったり、いろんな方に助けられながらどうにかこうにかやってました。 富士山麓までロケに行った時は「人が足りないから」と言われて、爆発の前を走 らされました。ドカーンって燃え上がると、後ろから何かが飛んできて頭に当たるんですよ(笑)。兵士の役で整列して叫ぶシーンにも出ました。

--造形担当者のやる仕事ではありませんね。お身体は大丈夫でしたか
竹谷:僕はお腹がゆるい体質なんですが、現場に入ると弁当はたっぷり食べられるし、外で身体動かしてヘトヘトに疲れてぐっすり寝て次の日早起き…健康にいいですよね。その間だけお腹が治るんです。

--ガレージキットの原型を手がけられたのも『未来忍者』が最初でしたか。
竹谷:そうですね。現場が終わってからナムコの方からオファーいただきました。当時は服のシワも作ったことなかったので基本的な勉強の連続でした。

--『聖戦士ダンバイン』(*18)のオーラバトラーも、その時期ですか。
竹谷:そうなると思います。コトブキヤさん(*19)から13種類もの注文をいただき、アレンジもOKとのことでしたのでイメージ優先で造りました。本放送は観ていましたが、原型を造ることになるとは夢にも思わなかったですね。ただ当時から高荷義之さん(*20)が描いた『ダンバイン』のイラストが好きでして。怪獣の外皮を装甲に転用したという設定があるのですが、高荷さんのイラストはそうしたイメージを膨らませていて本当にすばらしいと思いました。

--原型と映像用の造形では、どこが違うのでしょう?
竹谷:ガレージキットの原型は、複製ができる形状で作る必要があります。量産に向かないポーズやパーツの分割はできませんね。 対して映像用の造形は、演出意図に合わせるということになります。撮りたい画面次第では裏側などは造りませんし、ワンカット撮ったらその造形物の役目は終わり、ということも多いです。 ちなみに『仮面ライダーZO』(*21)に出てきた赤ドラス(ドラス・パワーアップ体)は、脚本にはない怪人でした。ある日、雨宮さんがドラスのアクション用を指して「竹谷、これ一週間ぐらいで改造できない?」って言われて…。色は「ライダーも元のドラスも緑っぽいから、補色の赤にしようか」などと行き当たりばったりな感じでしたけど(笑)、画面の中ではきちんと映えて効果的でした。

――この時期は、原型と現場のローテーションですか。
竹谷:はい、雨宮さんから声がかかったら現場に入り、終わったら原型制作ということが続いていました。こういうサイクルも楽しかったですね。今はムリですけどね(笑)。

(2013年4月12日) 取材:松田孝宏 撮影:竹谷隆之

『漁師の角度』の準備 (次回10月18日更新)




■青木と永坂
鳥の永坂は、犬の新田と共にカネヒサ爺さんと協力関係 にある。アフリカ出身の青木は陽気な人物だが、その 正体は生態系補正システムを開発した天才科学者、 アウォクィ博士である。
(*10)小林誠:イラスト、マンガ、映像監督、造形などマルチな才能を誇るクリエイター。『ハイパーウェポン』は、1984年に刊行された作品集。当時はまだ無名に近い存在だった小林氏の、独特の世界観で構成されている。

(*11)モデルアート社:日本初の模型雑誌『モデルアート』他、模型化対象となる実機の資料集や写真集などを刊行している出版社。

(*12)雨宮慶太:映画監督、イラストレーター。阿佐ヶ谷美術専門学校を卒業後、有限会社クラウドを設立。特撮作品のキャラクターデザイン、映像監督で人気を得る。映像の代表作に『未来忍者』『タオの月』『鉄甲機ミカヅキ』『牙狼-GARO-』などがある。

(*13)『エイリアン』:1979年公開のSF映画。《異星生物=エイリアン》という概念を一般的 なものとした。スイス在住のアーティスト H.R.ギーガーのデザインしたエイリアン が話題を呼び、今でも映像ソフトはもちろんフィギュア など商品化が多い。

(*14)メーヴェ: 宮崎駿監督による劇場アニメーション作品『風の谷のナウシカ』(1984年)に登場する飛行装置。

(*15)韮沢:イラストレーターの韮沢靖氏のこと。キャラクターデザインも行ない、雨宮監督の『牙狼-GARO-』ではクリーチャーデザインを担当している。

(*16)『未来忍者』:1988年発売のオリジナル 映像作品。雨宮氏の監督デビュー作品で竹谷氏も「造形」としてスタッフクレジットがなされている。

(*17)亀甲船:爆発、煙、ミニチュアなどあらゆる映画の現場で特殊効果を担当する制作会社。『ゴジラ』『ウルトラマン』から『20世紀少年』『デスノート』まで、人気作品に数多く参加している。

(*18)『聖戦士ダンバイン』:1983年から放映のロボットトテレビアニメ。ファンタジーを基調とした世界観、昆虫のフォルムを持つロボット(オーラバトラー)など、独特の世界観は根強い支持を誇る。

(*19)コトブキヤ:老舗のガレージキットメーカー。秋葉原の店舗は修学旅行がてら訪れるファンも多い。

(*20)高荷義之:メカニックイラストで現在も活躍するイラストレーター。精緻な戦車や軍艦を描く一方、独自のイメージを盛り込んだアニメロボットを描くこともある。

(*21)『仮面ライダーZO』:1993年公開。雨宮氏が初めて監督した「仮面ライダー・シリーズ」の一本。すでに造形家としての地位を得ていた竹谷氏は「クリーチャースーパーバイザー」として参加


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